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将門考記 飛んだ首の謎 晴明誕生の謎1編

「千葉の晴明」において安倍晴明一行が宿泊した土地は故平良文、現良文の子供である忠頼の領地であった。なぜ将門編に晴明が? お気付きだろう。筆者は晴明が桓武平氏と何だかの繋がりを持っていたのではないかという思っているのだ。
良文は886年に誕生、952年没。良文は母と京都にて育ち、4歳にして高望王とともに関東へやってきた。母の影響からか「妙見菩薩」に信仰があったといわれている。(HP「千葉一族」引用)
この妙見信仰は北極星を主体した信仰形体で「北辰信仰」と名付けられた。将門や相馬が使用した九曜紋も、その流れの中の一部である。この紋に付いて「天文民俗学」横浜こども科学館・出雲晶子さんは。
「平将門の紋は、紋章辞典みたいなのをみると九曜紋で、7惑星+羅劫、計都をあらわす、北斗七星+輔星、北極星をあらわすなどと書いてあるようです。
それから、平将門より前に東国平定をしたらしい坂上田村麻呂に関する神社が東北にあるのですが、そこで「北辰の法」というのを田村麻呂がやって戦勝を祈願したという伝説があります。また、源頼朝・政子夫妻が、鎌倉幕府の繁栄を願って、鶴ヶ岡八幡で北斗法を行った話もあります。あと徳川家康は、死後北極星にたとえられ、日光東照宮にまつられています。東照宮の家康の相殿神が北斗と輔星らしいのです。
相馬氏は星信仰で有名ですが、これは恒武平氏将門(相馬)の血筋を同じ恒武平氏の流れの千葉氏がついだためだと思います。将門から10代たって相馬に跡継ぎがなくなったので、千葉胤常さんが相馬の養子に入ったと記録されています。千葉氏は星信仰で有名ですからね。」
良文を祖とする千葉氏の影響を多分に受けたと考えられる建武4(1337)年に作られた「源平闘争録」という文献が残されている。それには、
「<巻第五 三、妙見大菩薩本地事>
前略妙見菩薩が現れて千葉成胤が初めての出陣となり、源頼朝の緒戦を助けた事に対して源頼朝が尋ねた。
「この度千葉小太郎成胤殿の初戦に真っ先に駆けつけてくださり有り難し、この功労に賞を贈る。頼朝もし日本を制覇する事になれば千葉の北南を、妙見大菩薩に寄進する。そもそも妙見大菩薩をどうして千葉殿は崇拝するようになったのか、御本体はどんな仏菩薩なのか?」
千葉介・千葉成胤の祖父・千葉常胤が畏まって申し上げるには、
「この妙見大菩薩というのは、第61代朱雀天皇の頃、承平5年八月上旬に、相馬小二郎将門と上総介・良兼とが仲違いをしており、常陸の国で合戦を企てましたが、良兼は多勢、将門は無勢でありました。常陸から蚕飼河の辺に迫りつきました。
将門は川を渡ろうとしましたが橋もなければ船もなく思い悩んでおりますと、そこに何処からともなく小さな童子が現れました。『瀬を渡りなさい』と告げました。将門はこれを聞いて、蚕飼河を渡り豊田郡へ討ち入り、河を隔てて闘ううちに、矢が尽きて来ました。この時も童子が落ちていた矢を拾い集め将門に与え、これで闘いました。また、将門が疲れている時、将門の弓を取って10本の矢で敵に向けて放つと、1つの打ち損じもなかったといいいます。これを見た良兼『ただ事ではないぞ。天の計らいによるものだ』と思いながら退散しました。
将門は勝利を得て、童子の前に跪(ひざまず)き、袖を合わせて申し上げました『あなた様は、どのような方ですか』と問うと、この童子答えました。『吾は妙見大菩薩なり。昔より今に至るまで、正直な若者を助ける誓願を持っており、武剛なるが故、守護したのである。汝は実直で武剛なるが故に、吾汝を守らんが為に降臨する所なり。自らは、上野国花園という寺にある。汝もし志し有れば速やかに吾を迎え取るべし。吾は十一面観音の垂迹(すいじゃく)であり、五星中の北辰三天子の後身である。汝は東北の隅に向かい名号を唱えよ。以降将門の笠印には<千九曜の旗>を指すべし。』といいながら、何処ともなく消えていきました。
将門は使者を花園へ遣わし、手厚く迎え崇敬しました。将門の御利益のせいか5ヶ年の間に東国八ヶ国を制覇、下総の国は相馬の都に京を立て将門新皇と呼ばれておりました。しかし後に政務を怠り、神をも恐れず朝敵となり、神仏の田畑を奪い取ろうとする為に、妙見大菩薩は将門の家を出て、村岡五郎良文のもとへ渡って行った」
実際良文の流れを組む埼玉・秩父神社(御祭神:八意思金命(やごころおもいかねのみこと)、知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ))にも妙見宮が存在し、痕跡を見る事が出来る。
ところで「妙見菩薩」とは何か
「妙見菩薩」とは「菩薩」というからには仏教の神の一つであるが、天文神で道教・陰陽道でいう「泰山府君(たいざんふくん)」と同格化・同一化する見方がある特殊な神である。特に道教が得意とする北極星を神格化したもので北斗七星も含む場合も有る。そこでもう一度千九曜紋を見ると●が9つある。これは全て星を表している。中央の●は「北極星」その周囲の●は「北斗七星+輔星」を表している。「泰山府君=妙見菩薩」であるなら「泰山府君」は「人の寿命を司る」このため、見放された将門は「死」へと導かれたのである。
将門は「妙見菩薩」が去った後八幡信仰となっていく。八幡信仰も同様に北斗を意味し後に源氏の主神となる。「八幡」とは「北極星+北斗七星」を意味し鍛冶神の一つとされている。後の八幡信仰であった源頼朝は日光東照宮において神格化され、円仁が連れて来たという道教系の神「摩多羅神」と同一化する傾向にあるという。「摩多羅神」は「死人の臓物を食い成仏さる」という妖怪と神の中間のような神で「踏鞴」の語源ともいわれるほど鍛冶神(鉱物神)である。
千葉成胤に妙見大菩薩を尋ねた源頼朝は1192年鎌倉幕府を設立し征夷大将軍となった。後に永承元年頼信の子である頼義が永承六年(1051)陸奥守となり、天喜元年(1053)鎮守府将軍となった。この時勃発した「前九年の役」の戦勝を石清水八幡に祈願し、平定後鎌倉に若宮を建立。これが清和源氏の氏神・鶴岡八幡宮であり、その子供である八幡太郎義家が、それを修理したのが始まりであると言われている。
つまり、源頼朝も後に妙見信仰ではなく八幡信仰となっていったのである。
八幡系の神社の神紋は「三頭右巴」であり藤原秀郷も同紋を使用している。
貫達人著「鶴岡八幡宮」は八幡信仰の起こりについて下記のように述べている。
1.焼畑ヤキハタがなまった
2.多くの幡ハタを立てて祭るから、多数を表わす八をつけてヤハタとした
3.八幡宮は秦氏と関係があるから、弥秦イヤハタからヤハタとなった。
4.海の神であるから弥海イヤワダからヤハタとなった。
原始八幡信仰は豊国の神=辛国神、祭祀を司る氏族は秦氏の系列・辛島氏。辛島氏は新羅系の鋳銅技術を持つ氏族である。山国の神=海国神、祭祀を司る氏族は海氏(のち宇佐氏)。宇佐氏は航海術を持つ氏族であった。やがて鉄器の文化を持つ辛島氏に宇佐氏が統合され、新羅系渡来人指導による原始八幡が成立して行ったと考えられている。
ここで2つの事が疑心から確信へ変ってくる。
1)星と信仰が渦巻いた環境下であるからこそ、天文博士・安倍晴明が誕生しても
決して不思議な事ではない事
2)北辰信仰の流れの中には大きく分けて2つの系統が有るのではないか。
それは渡来人の系統と等価の関係に有るのではないか?
この2つの項目を頭に入れながら、晴明の母を推理する旅に出てみよう。
一挙に大阪・和泉へと場所を移す。
「恋しくば尋ねきてみん和泉なる
信太の森の うらみ葛の葉」
御存じかもしれないが、安倍晴明の母親は狐であるとされて不明である。色々な推測がある中、徳間書店「異界陰陽道」に天社土御門神道本庁藤田氏の談話掲載されている。
「安倍家は中国の人々とも繋がりが深かったとのこと。新羅国の吉志族も安倍家が厚く保護していたそうです。これは、吉志族に伝わる吉志の舞を安倍家が司っていた事からもわかるといいます。この吉志族の姫君と安倍益材との間に生まれた子供が安倍晴明ではないか」
江戸以降芸能の世界で「葛の葉伝説」として取り上げられ晴明誕生地の最有力地である。
「天武朝(780)白鳳三年秋八月十五日勅頼により信太首(まびと)をして聖神と斎きらしめ給づと伝ふ」
天皇の勅命により創建された土地、実に七十七万7千六百坪。萬松院・大蔵寺別当を保有した広大な寺が建設された。明治から昭和にかけてその土地は陸軍演習場、現自衛隊演習地、火葬場等に変貌するが実に広大な土地を持っていた寺院があった。この神社の名前を「聖神社」という。
晴明本でご覧になっている「葛の葉稲荷」は、当然ながら「聖神社」の末社に当り、本家本元はここ「聖神社」ということになるのだ。
<聖神社>
祭神:須佐男尊・天照大神等々。和泉の国・三宮として栄えた神社である。
由緒には天正5年が917年ととんでもない間違いがあるが、まあいいだろう。917年に織田信長が来るはずが無い事ぐらいだれでもわかるのだから。ちなみに天正5年は1577年である。ここの由緒はコピーしてもらったもので置いてあるわけではないので、もし行かれる事があったら社務所まで。由緒の最後には、こう記されていた。
「阿倍保名信仰は当社とす」。
正式名称「泉州信太森葛葉稲荷」
祭神は宇迦御魂神である。
宇迦御魂神というのは「古事記」では、須佐男尊と神大市比命との間に生まれた子供である。学研「日本の神々の事典」によると、須佐男尊がその悪行ゆえに高天原を追放される下りに、蚕と五穀の起源が記される。「ウカ」は大宣都比命、保食神「ケ・ウケ」は同じく食物を表している。「ウケノミタマ」は「稲魂」であり「穀霊」でなのである。つまり稲作信仰に関係がある。
さて、この稲作信仰は当然ながら民間信仰とし広がっており「ウガノモチ」「ウガマツリ」に繋がっている一方、青森三戸郡では「オカノカミ」「オカノカミノトリトリ」といって餅を作る習慣がある。
次の誕生地は御存じ阿倍野区阿倍王子神社である。飛地には晴明神社がある。
ここにいう「王子」は、旅人が休息や宿泊したり、貴族が宴をとるのも王子社でおこなわれ特に大阪から和歌山までの王子社を総称して「熊野九十九王子」という。和歌山からは現在注目を浴びている「熊野古道」と呼ばれる細い山道となり、その道標のような物でもあった。
ではもう一度大阪・和泉に戻り王子社を辿ってみると、
津守王子→境王子→大鳥居新王子→篠田王子
「篠田王子」がある場所というのは、「聖神社」の大鳥居の横。この地域は以前篠田王子があったために「シノダ」と名付けられたのである。これで安倍晴明生誕の地と母親の伝説がある地が繋がった。
そして向陽書房「熊野古道1」大阪の熊野路の中に驚くべき事が書かれていた。
「<大阪における朝鮮文化>によれば聖神社は百済系の信太首(しのだのおびと)によって「陰陽師」で、その「信仰した神」だろうとされ、聖(ひじり)は日知りであって暦の神にあたるとする。」。
やはり渡来人か!
しかしここでいう渡来人は新羅系とされ前述とは異なる。だが将門ルートとは符合する。
奥多摩・青梅の三田氏は壬生吉志、「飛鳥部。百済国の人、国本木吉志の末なり」、河内国安宿郡(あすかべぐん・現大阪府南河内郡)の地名に基づく。
将門伝説の舞台・岐阜・明星輪寺の神紋は<九曜>
明星輪寺の文化財には「生養稲荷神式次第阪木」
<百済から渡ってきた皇室>百済系鬼室氏の存在が浮き彫りのなった。
闇の日本史スペシャルエージェント埼玉支部長・紫乃さんの研究レポートはいう。
<「吉志族」は武蔵国だけでは無く近隣の「下総・上総・常陸・陸奥国・上野国・下野国・相模」にまで至り、遠くは「讃岐国・摂津国」にも居ました。>
晴明の誕生地の全ては<渡来人>というキーワードで繋がっている。
<将門は「妙見菩薩」が去った後「八幡信仰」となっていく>
そして渡来人は東国に進出し、2つの選択肢を首長に委ねた。
「新羅」なのか! 「百済」なのか!
そして晴明誕生の秘密も、2つの選択肢がある。
次回に続く


