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宮崎・西都原2
西都原を後にした筆者は、西都原台地を下り直のところにあり「記・紀の道」の道の1つでもある神社に寄ってみることにした。

都萬神社 (宮崎県西都市大字妻1)
古墳からは歩いていける桜川の辺(ほとり)にある。その昔、妻満川のほとりに住む妻満神が宮を建て、住んでいたといわれている神社で、境内には地元の方々がのんびりとくつろぐ以外観光客はいなかった。ここは日下部という一族が社を守っている。


境内には次の由緒が書き記されていた。

「この神社は天孫ニニギの尊の妃・木花開耶姫を祀り都萬神社または妻萬宮と申します祭神木花開耶姫はオオヤマズミの命の姫君でニニギの尊との御結婚にはコトカツクニカツナガサの神が媒酌をとりもち日本最初の正式な華燭の式典を挙げられました。故に古来からこの結婚の喜びにあやかりたいと崇敬の厚いお宮であります。祭神木花開耶姫は青島神社のヒコホホデミの尊の母君鵜戸神宮のウガヤフキアエズの尊の祖母君にあたり宮崎神宮の神武天皇の曽祖母で日本民族の彌栄をもたらせた国母神でありますから、女性の守護神 お産の神と敬い家内安全の祈願に参拝の多い神社であります。
西都原御陵参考地の正面にある女狭穂塚は、この神社の祭神木花開耶姫の御陵とつたえられています 」(従って神社の神紋も<桜>)


現地は余りにも閑散として無人であるかのようだったために、何も感じなかったが西都原1を書きながら「あれっ!ひょっとしたら」と思うところがあった。

もう一度<男狭穂塚、女狭穂塚>レリーフを良く見てもらうと、男狭穂塚はホタテのような形をしていることから「帆立貝型古墳」と、やや安直なネーミング。男狭穂塚は他の前方後円墳と同様に北を向いているが、女狭穂塚はご覧のように傾いている。



女狭穂塚ベクトルをマイナス方向(南東の方向)に伸ばしていくと、<鬼の窟>にぶち当たる。ではその先は、どうなっているか?
この地図からはみ出すが、どうやらこの都萬神社にぶちあたっているのではないかと思われる。実際にボランティアガイドさんが手にしていた女狭穂塚の先にあるといわれる神社というのは、この神社なんだと気がつく。
もちろん神社は後にできたものあろうが、しかし妙なのは、その中間に<鬼>をサンドイッチしていることである。どうも引っ掛かる!
ちなみに、女狭穂塚・男狭穂塚は4世紀ごろに築造されたもので、女狭穂塚の方が早くに出来。鬼の窟、酒元ノ上横穴群は7世紀に作られたものと考えられている。


少々話しは変わるが西都原の隣・都農町に都農神社(宮崎県児湯郡都農町大字川北)がある。縁起は下記。

「都農神社は古来日向国一之宮と称え、御祭神は御神徳の高い、大巳貴命(おおなむちのみこと・又の御名大国主命)を奉斎する古社であります。当社の縁起によれば、神武天皇御東遷の砌、宮崎の宮を御進発になり、途中此の地において、国土平安、海上平穏、武運長久を御祈念の為、御親ら鎮祭されたのを当社の創祀と伝えます。その後歴代皇室の尊崇篤く、第五十四代仁明天皇の承和四年には官社に列せられ、同十年神階の宣授があり、第五十六代清和天皇の天安二年神階従四位上を奉られ、第六十代醍醐天皇の御代、延喜式神名帳には日向国児湯郡都農神社と撰録せられ、日向国式内社の一つとして登載された日向国一之宮であります。」

一見すると全く関係のない2つの神社には妙な共通点がある。

都農神社「第五十四代仁明天皇の承和四年(837)には官社に列せられ」
都萬神社「『続日本後紀』では、承和四年(837)八月朔、官社」
    「『三代実録』では、天安ニ年(858)10月22日に従五位上から
     従四位下が授けられている」

不思議なことに両社は文献に登場してくる<年号が同じ>。

実は九州へ遣ってくる前に、闇の本史スペシャルエージェント埼玉支部長・紫之さんよりデータが寄せられていた。闇の日本史スペシャルエージェント宮崎支部長・猫ばす堂さんが別件で紫之さんに情報提供したものだという。その内容とは、

「宮崎県古公文書 神社一巻 明治六年 (二分冊の二)」の中に
 都農神社所蔵物調
 古文書類無御座候

 古神面一
  個破損シ漸ノ形ヲ存ス。檜圖面相添
 右推古天皇ノ御宇 秦河勝奉勅諸国ノ大社ニ奉献セシ
 其ノ一也ト言傳フ」

さらに地元紙・日向日日は、昭和16年12月6日に次のように掲載する。

「第二十代安康天皇三年 丙甲令品鳥恵寸蒐日向国児湯郡都農川得白鳥云々
計傳(でん)には
第三十三代推古天皇秦の河勝に勅して面を奉献さし給ふ」

都農神社には、推古天皇(在位592〜628)が秦河勝に指示して<面>を奉納したとある。両社とも創立年代は不詳とされるが、少なくとも都農神社は5〜6世紀へと遡ることができる。そして両社は「あるキーワード」で繋がってくるのだ。

それは「酒」

都萬神社の敷地内に、こんな事が書いてある。
「日本酒発祥の地」
日本書紀に、コノハナサクヤ姫が3人の皇子を火中出産した時、乳の足りないので甘酒で代用したという。また前回横穴の遺体をご紹介した遺跡の名前を覚えておいでだろうか? <酒元ノ上横穴墓群>。 この神社の<北>=<上>、実際に<酒元>つまり酒蔵のような物が有ったことを物語っているのではないのか?





この写真は京都・太秦にある「大酒神社(おおさけじんじゃ)」別名「太秦明神」

この神社の由来は雄略期に遡る。

「秦の民が分散して各国の豪族に酷使され、秦造にゆだねられていない現場を秦造の酒公(さけのきみ)が天皇に訴えたので、天皇は秦の民を集めて酒公に賜った。そこで酒公はかれを率いて、庸調の絹・かとりをたてまつった。その数は多量で、朝廷にうず高く積まれたので、禹豆麻佐(うずまさ)という姓を賜った」。

<天皇は秦の民を集めて酒公に賜った>とあるように、この時期の秦氏の長は<酒公>であった。実際秦氏が酒作りと関係が有ったかどうかのデータは見当たらない。だが丁度<酒公>の時代は雄略期、つまり4〜5世紀。それは女狭穂塚・男狭穂塚ができた時代でもある。そしてすくなくとも後の5〜6世紀・都農神社が作られ、秦河勝が<鬼の面>を奉納し、7世紀には鬼の窟、酒元ノ上横穴群が作られる。
どうも出来過ぎのような展開。この展開に筆者が見るものは、<鬼>=渡来人の構図。

ここで都萬神社の祭神・木花開耶姫の出身地に注目する。

西都原1で述べたように木花開耶姫の本名は吾田鹿葦津姫。「吾田」は「阿多」をしめしている。阿多は現在の鹿児島県加世田市(特攻隊基地で有名な知覧の東)に位置しており、ニニギノミコトが最初に木花開耶姫にであった「吾田の笠沙(かさ)の岬」は加世田市東に現存する地名であり、なかなかの信憑性がある内容だ。



回りくどいパズルのような解説になるが、これは鹿児島指宿編で御見せした平成5年発掘調査で出土した8世紀の住居跡で確認された小鍛冶炉の写真。この辺りは鍛冶跡は発見されたが、踏鞴の痕跡が皆無である。なぜなら液状化現象が確認される程、湿気の多い土地では鉄の生成は難しく、多量の燃料を必要とするため山間部でないと、どうしても無理があるからである。では踏鞴はどこにあったのか?


そこで注目したいのが、木花開耶姫の父親である大山祇命(おおやまつみのみこと)の存在である。ちなみに前回も登場したように大山祇命の墓と思われるものは西都原にあり、都萬神社の奥の宮は大山祇命を奉っている。

大山祇命について本居宣長は次のような説を出している。
「山祇(やまつみ)は山津持(やまつもち)で山をもちます義であると解釈され、広い山を司る神」(学研「日本の神々の事典」引用)

単純にいってしまえば木花開耶姫がヒメであったのは、父親が<山主の資産家>であったからだと解釈できる。そこに鹿児島・隼人町2で述べた八幡信仰が関ってくる。

大和岩雄氏が雑誌に投稿された「特集・古代の氏族 鷹をシンボルとする秦氏 〜八幡信仰をめぐって〜」の中で、次のような事をいっている。

「辛島氏はもともと採銅所長光氏と同様に鍛冶技術を有する氏族であることは、八幡宮縁起の鍛冶翁神話によってみても分かる如く鍛冶シャーマンである。・・中略
原始八幡信仰は鍛冶技術を有するシャーマンが、それまでのナチュラリズム・アニミズム社会を駆使しておこなったものであろう」

山を持っているということは、当然ながら燃料になる資源も、原料になる資源もある。あっただけでは「宝の持ち腐れ」。そこにはエンジニアが必要であろう。辛島氏は秦氏の末裔でもあり上記のような技術があった。砂鉄を生成するには「カンナナガシ」という水路を利用する。
<鬼の窟>に高度な排水施設があったのも納得できる。秦氏は聖徳太子の時代になると数々の建築物を造っていくことからも<天測>を利用した設計もあったであろう。
前述、都萬神社を守っていく日下部氏は「海氏」の系統を受け継いでいるともいわれる。仲介役は勿論大山祇命ではないかと読む。


これは闇の日本史スペシャルエージェント宮崎支部長・猫ばす堂さんが御作りになった宮崎の地域名称を色分けした図である。
さて、ここで前述の地図を見ていただくと、ギョッとする。
応神王朝後繁栄を極め日本最大の前方後円墳を造った仁徳天皇の妃は髪長姫と磐之姫である。髪長姫は諸県君牛諸の娘。地図を見ると西都原南部には、きっちり其の名が残っている。さらにもうひとりの后・磐之姫は葛城襲津彦の娘。葛城氏といえば奈良県御所市を思い浮かべる。


闇の日本史スペシャルエージェント宮崎・猫ばす堂さんは次の情報を寄せる。

「西都市在住の考古学者にして歴史家の日高正晴さんは、日本放送協会出版の<古代日向の国>の中で、西都原成立以前に高千穂から椎葉あたりにかけて<襲の国>が存在していた。葛城襲津彦は襲の国出身の葛城氏、もしくは襲の国生まれの葛城氏の男という意味なのではと書いています。」

奈良県御所市辺りに君臨した武内宿禰の子孫といわれている葛城氏は、日向の出身だというのだ。つまり後に奈良の都に君臨する大豪族は、ここ宮崎の出身者であって、それは応神王朝成立とともに進出してきたと推測できるのだ。
そう考えていくといくと、西都原において反逆の兆しが確認できないのもわかる。そりゃそうだ。都の豪族がすべてここの出身者なら納得がいく。そして都と同じ古墳群であるのも想像が付く。

これは「表の日本史」なれば決して表に出てこない「闇の日本史」もある。
この場合で言えば「鬼」。X王朝と共に使え<西都原の古墳マトリックス>の中で重要な位置に君臨するほどの力を持ちながら<鬼>と呼ばれ、<横穴墓>という現地特有の墓制であった<隠れた一族の存在>が注目される。

その一族は<表舞台に姿を決して現さない>。反面権力が有るという矛盾した一面を持つ。その源を筆者は<資本力と技術力>にあったと読む。

それは応神王朝成立にまで遡る。

1)出兵の為の食料を確保できる。
2)資金が確保できる。
3)武器を生成できる技術を持っている。
4)武器を造る資源を持っている。

筆者は、そんなことができるのは<1人の神>と<技術を持った1つの渡来氏族>の存在しか思い浮かべることしかできない。

中国の文献<隋書>はいう。
<文林郎裴清世(ぶんりんろうはいせいせい)は百済、竹島を経て南に耽羅(たんら=済州島)を望み、都斯麻(つしま=対馬)を経て一支(いき=壱岐)、継いで竹斯(ちくし=筑紫)国に至る。そして叉東して秦国に至る>(学研「聖徳太子の本」引用)

そしてこう付け加える。 「阿蘇山有り」と!

次回に続く。





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